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何人かの友人が母の安否を気遣ってくださったので。ご報告。
地震が起きた時、母は東京へ向かう特急の中だったそうです。
被害が割りと酷かった茨城県の日立というところでした。
電車が動かないので、徒歩で水戸まで行き避難所に入ったそうです。
避難所で一晩過ごし、電車が動き出してからいけるところまで行き
そこでタクシー待ちをしている人たちに声をかけあって、ようやく
姉の家までたどり着いたということでした。
母がいわきを出てから姉の家に着くまで丸2日以上かかりました。
それでも怪我もなく無事だったことは本当にありがたいことです。
茨城も仙台と同じようにライフラインがすべて止まっており、空腹は
我慢できても、トイレにとても困ったということでした。
地震の直後、母とは3回電話が通じて話が出来たけど、6時過ぎたあたりから
まったく電話が繋がらなくなって、姉と連絡取り合いながら不安な一晩を
過ごしたけど、姉の家に着いてから電話で話せた時開口一番
「家のTV大丈夫かしら」にはいつもの○○子節を聞けてほっとした。
去年の夏に買ったばかりの液晶テレビだもんね。
そりゃ心配だ。
新幹線が開通し次第仙台に帰っておばあちゃんをうちにつれて帰るって
言ってるけど、一般市民の立ち入りは制限されてるのかな?
早くみんなの無事が知りたい。
とりあえず、母は無事です。
みんなありがとう。
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妹の日記が、伝えたいことを代弁してくれていたので、
そのまま転載させてもらったよ。
(個人名は伏せました)
母はとっても話べたで、5回くらいみんなに説明しているのを聞いて、
やっと全貌が分かってきたかんじ。
1泊したのは避難所ではなく、話すとまた長いんだけど、
とても親切な若い女性の家に、知らない人たちと泊まらせてもらったそう。
一度は断って、卒業式の最中だったらしい小学校の体育館に行ったけれど、
あまりの寒さ、またものの散乱している中で、
とても無理と思い、これまた幸運にも前述の女性に迎えに来てもらうことになり、
暖かい場所で、雑魚寝だったけれども一晩過ごすことができたのだそうです。
その女性のお父さんが作ってくれたラーメンが
本当に美味しかったと、何度も言っていました。
取手から電車に乗って東京へ向かうとメールをもらってから、
実に10時間以上たって対面することになった時には、
母が福島をでてから、丸二日が過ぎていました。
直ぐにでも仙台へ帰るつもりだったらしいけれど、
東京へ着いて3日後くらい、やっとテレビに映った仙台駅の様子を見て、
まったく無理だということに気がついたみたい。
それでも昨日、今まで連絡の取れなかったおじさんたち、
いとこたちから続々と電話が入り、
みなの無事を確認することが出来ました。
心配していた90歳を超える祖母も、栗駒から叔父が迎えに来て
自分の家へと帰って行ったし、
家に帰れなくなったいとこたちは、秋田へと移動したそう。
仙台で物資がない中生活するいとこは、
母の家に蓄えられていた食材や日用品でしばらくは暮らせるだろうし。
そうそう、母がずっと心配していた買ったばかりのテレビ。
祖母に預けていた鍵で、いとこが中に入って見てくれたんだけど、
まるで掃除をした後のように整然としていたらしく。
テレビも植木鉢一つ倒れておらず、
壊れたものはなかったとのこと。
周りの被害が大きかっただけに、母のミラクルぶりには驚かされます。
関東地方でも未だ続く大きな余震に加え、
食料と水の確保が難しくなっている状況に、
母と子供たちを兵庫の妹宅へ預けることにしました。
昨晩、最終の新幹線へ飛び乗り、
今朝は兵庫で朝を迎えています。
私は連休明けの火曜日、仕事を再開する予定。
原発に関しては、主人の勤める会社(アメリカ企業)に
アメリカ大使館から正式な文書で、
日本政府と東京電力の対応は正しいとの見解が届き、
しばらくは過剰な心配は必要がないと、
主人も落ち着いて東京で仕事を続けています。
沢山の方たちが苦しい状況にいるなか、
よかったと言うことさえはばかれてしまう現在ですが、
無事の声を聞くたび、胸をなでおろしています。
兵庫の妹も、何も変わらない平穏な日常に罪悪感さえ感じつつ、
毎日の生活を送っているよう…
嫌な顔一つしないで迎え入れてくれる、妹と旦那さんに感謝です。
コメント書いてくれた皆さん、ありがとう。
個人的な内容も多いので、表示しないね。
こちらで、近況報告としますね。
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